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2009年10月 5日 (月)

戦後64年 ご遺族に対する思い

Ed613 今日は平成21年度の千葉県遺族会第2ブロック戦没者遺族大会が成田市で開催され、地元議会の代表として参加させていただきました。

この第2ブロックは、印旛、海匝地域など18市町村で構成され、成田市での開催は11年ぶりとなりました。という事で、市役所にもこの行事の様子がわかる資料もありませんでしたので、私としてもどのようなご挨拶が適当なのか、その場に行って判断しようとの思いで参加したところです。

式典開始前に、銚子市遺族会が発行している会報紙”いしずえ”を読ませていただきました。その中で、銚子市戦没者追悼式での内容に思いを深くしました。

内容は、まず”誕生十日後に父戦死”というタイトルで始まり、昭和12年の盧溝橋事件をきっかけに始まった日中戦争の兵役で昭和14年1月に父親が出征、同年8月30日戦死されたそうです。

そして、この思いを語った方の誕生日は昭和14年8月20日。当然親子の対面もなく、我が子が生まれた事実も知らないままに父親は21歳という若さで戦場に散ったのです。

若くして夫を亡くした母親は、周囲の進言もあってお父さんの弟と再婚し、二人の男の子をもうけたそうです。

しかし今度は、この二人目の夫も出征し、昭和20年6月沖縄県において日本軍玉砕の日、24歳の若さで亡くなったとの事です。

同年、三男が病死し、その後祖父も他界、祖母も病で倒れました。

そして次の見出しが「地獄の生活の始まり」というもので、まさに子ども二人と病気の姑を抱えて大変なご苦労があったとの事です。

母親は田畑に這いつくばって身を粉にして働きましたが、わずかな収入しか得られない生活が続いていたそうです。

昭和20年は大変な米の不作で、食べ盛りの2人の子を抱え自ら食べるお米にも困っていた中、米の供出が強要されました。そして、十分な供出ができないことを言うと「非国民」という言葉を浴びせられ、その時の様子は今でも脳裏から離れないでき事だそうです。

この母親は、農作物の収穫を増やすために、牛車を借りて1日がかりで銚子まで魚粕を求めに行き、無事に帰路につきましたが、我が家に到着するわずか数百メートル手前で検問にあい、魚粕はすべて没収されてしまいました。

この時の母親の落胆ぶりを子どもながらにもはっきりと理解したそうです。

後に、この母親は子供の眠っている枕元で「今夜こそ、この子供らと一緒に死のう」と何回思った事か、という話を教え、母親の命がけの頑張りで今があることを実感しているのだそうです。

以上が大体のお話のあらすじです。

この実話を聞いて、戦後遺族がどれだけご苦労されたのか、想像できない方はいないと思います。

そこで私は、用意してあった挨拶文ではなく、その場で思った事をただひたすらに壇上から述べさせていただきました。

小さな地方の議会ですが、政治に携わる者の一人として、市民を国民を幸せにするのも政治、また不幸せにするのも政治なのだとの思いが自然とこみ上げてきた今日の行事です。

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